私たちに戦争の責任はあるのか
まもなく終戦の日を迎える。戦争といえば、徴用工や慰安婦問題は未だ解決の糸口が見えない。現代に生きる私たちが戦争の責任を負わなければならないなのか。
今回は、高橋哲哉『歴史/修正主義』を読んで考えたことを書いていく。
私たちは戦争の犯罪者ではない
直接の罪がない日本人のなすべきことは、自分が犯罪者ではないことを理解してもらうことであり、犯罪を犯した日本人の罪を否認することではない。(p8)
戦争をしたのは同時代に生きた人々であり、私たちは戦争の犯罪者ではない。ただしこれは過去の過ちを否定することと同義ではないのだ。ただ、後述するように、政治的責任については戦後においても国家が責任を果たしていかなければならないだろう。徴用工のように一企業に賠償責任を求めるのはおかしいが。
「終わり」なき責任とどう向き合うか
●著者が分類する戦後責任
- 国家が果たすべき政治的責任(賠償・補償,責任者処罰,公式謝罪など)=「終わり」ある責任
- 「記憶」の責任=「終わり」なき責任
私たちが向き合わなければならないのは、「終わり」なき責任である。つまり、戦争の記憶を次の世代に受け継ぐことである。その具体的な行為は、歴史教育の中で事実を語り続けること、犠牲者のために慰霊碑を建てることなどである。
とりわけ慰安婦問題に関しては、1990年代に入ってから政治的責任を日本政府に求めるようになった。この事実をどのように捉えるかは意見が分かれるところだが、私は日本政府が政治的責任(「終わり」ある責任)を果たせば、この問題は終結したと捉えて良いと考える。後は、「終わり」なき責任について、感情的にならずに客観的に議論できるかどうか。現在の戦後最悪と言われる日韓関係では難しいか。
私たちにできることは過去の事実と向き合うこと
私たちにできることは過去の事実と向き合い、真実を追い求めることである。なぜ戦争が起こってしまったのか、その原因は誰のどのような思考による判断がそうさせたのか。それらの疑問を歴史学が追求する姿勢に私たちは注目しなければならない。
最大の責任を有するのは政府を組織する人々であるが、日本国家が負う「戦後責任」を政府が適切に果たさないとき、その政府を批判し、政策変更を求めたり、別の政府を作ったりする責任は、「国民」に帰着する。(p15)
ただ、それだけが重要ではない。戦争の当事者が居なくなってしまう状況にあるからこそ、私たちは等しく「終わり」なき責任を果たし続けなければならないのだ。これからは私たちが戦争の語り部にならなければならない。これ以上戦争経験者の心を苦しめないためにも。
戦争の経験者ではない私たちが戦争の記憶をどのように継承していくのか。それは戦争に対する責任を持つことで始めて考えていくことができるはずだ。