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なぜ明治維新史を修正せねばならないのか【薩摩篇】

前回は下関戦争を例に、長州藩における行き過ぎた地域顕彰と、その歴史認識の問題点を考察していった。今回は幕末史のもう一つの有名な舞台である薩摩藩の歴史を考えていく。

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生麦事件歴史認識

生麦事件1862年9月14日に、武蔵国生麦村の東海道上で発生した英人殺傷事件である。事件を起こしたのは、江戸で朝旨伝達の使命を果たして帰京中であった島津久光一行であった。大名行列に参加していた下級藩士がリチャードソンを殺害し、他2名を負傷させた。

実は大名行列に遭遇したにも関わらず、下馬せずに横切ったリチャードソンらの非を強調するような認識が現在でも多く見られている。しかしながら、これは単なる無礼討ちの事件という歴史認識でよいのだろうか。

明治維新の国際的環境 (1966年)

明治維新の国際的環境 (1966年)

 

ここでは、当時の武士が簡単に抜刀をすることができたのかについて注目していきたい。私たちは時代劇などの影響で、切捨御免などのシーンを想起しがちであるが、それは簡単にできることではなかった。斬った武士も処罰されたり、切腹とされたりする場合もあったのである。そのため、江戸時代の武士にとって抜刀はかなりの覚悟が必要だった。

では、島津久光の従者による抜刀をどのように解釈すべきだろうか。事件の現場にいたのは安く雇うことのできる下級藩士が多かった。多くの下級藩士大名行列に参加することにより、大名の権威を誇示することができたが、逆に秩序の低下がもたらされた。また、当時は第2次東禅寺事件など、外国人殺傷事件が多発していたという背景もあり、下級藩士にとって異人を殺すことが侍にとって勇気のある行為とみなされていた。つまり、外国人を殺しても良いという思想にとらわれた藩士が勝手に外国人を惨殺したというだけの事件と見る解釈の方が自然である可能性が高いと考える。

また、外国人の視点から考えることも重要である。当時の東海道は横浜居留地の遊歩区域に含まれていた。その中で、外国人達は川崎大師詣でなどのレジャーを楽しんでいたのである。つまり、その区域内であれば自分たちの権利が守られるのは当然であると考えていた。そしてこの事件を契機として起こったのが薩英戦争なのである。

 

薩英戦争の歴史認識

生麦事件について、イギリス代理行使ニールは幕府に対して公式の謝罪と11万ポンドの賠償金を要求し、薩摩藩に対しては2万5千ポンドの賠償金と犯人処刑を要求した。幕府は賠償金の支払いに応じたが、薩摩藩はこれを拒否する。そのため、ニールは鹿児島へ行き藩当局と直接交渉をすることになったが、最終的には交渉は決裂し、クーパー提督率いるイギリス東洋艦隊が鹿児島城下の砲台を砲撃した事件が薩英戦争である。

薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 は 29-2)

薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 は 29-2)

 

ここでは、この戦争の勝者はどちらにあるのかという議論に注目する。例えば、人的被害がイギリスの方が多かったという部分に注目し、薩摩藩側が勝利をしたという見解がみられる。この見解は日露戦争期から出てきた解釈であり、軍国主義の影響が強かった昭和戦前期には顕著に現れていた。東郷平八郎山本権兵衛が薩英戦争の体験者であったことから、鹿児島県出身の日本海軍は負けないという認識が意図的につくられてしまったのである。

一方で、歴史教科書をはじめとした多くの文献では、薩摩藩側が敗北をしたという見解がなされている場合もある。薩摩藩の敗北とする見方は、薩英戦争の敗北が討幕運動への転換を促し、イギリスとの接近へと方向転換することになったと解釈する。しかしながら、このような解釈には問題点が存在する。それは同時代的に考えた時に、戦に敗北したと認識されることはあり得ないからである。つまり、侍にとって負けるという論理は存在せず、歴史認識として薩英戦争の勝者と敗者を考えることは意味のない行為なのである。

さらに薩英戦争では西瓜売り決死隊の逸話が存在しているので取り上げたい。

薩摩藩はこれを拒否し、二十九日には西瓜売りに変装させた八〇人余りの武士たちをイギリス艦隊のほうにむかわせた。イギリス兵を油断させて船に斬りこみ、軍艦を奪ってしまおうとしたのだが、イギリス兵の警戒心をゆるめることができずに失敗した。〔原口泉ほか『鹿児島県の歴史』p250〕

当時の農民は、たとえ外国船であっても船が来航すればモノを売るために近づいていった。しかし、支配者にとってはそのような船には一切関わらないと考えるのが当時の常識であるため、この逸話は虚偽だと思われる。他にも、薩摩藩が勇敢に戦ったように見える原因となった、久坂玄瑞らによる砲撃の逸話などがあるが、歴史認識を歪曲させる一因となる逸話は数多く存在している。

実はたとえ県史や市史に記載されている内容でも、それが歴史的史実かどうか、疑うべき事例が数多く存在するのだ。これらが幕末史の幻想を作り出してしまっている可能性を否定することが出来ないのである。

 

【参考文献】

  1. 横浜市編『横浜市史 第2巻』(有隣堂、1959年)
  2. 石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』(吉川弘文館、1966年)
  3. 鹿児島市編『鹿児島市史 第1巻』(1969年)
  4. 萩原延壽 『遠い崖­アーネスト・サトウ日記抄2 薩英戦争』(朝日新聞社、1998年)
  5. 原口泉、永山修一、日隈正守、松尾千歳、皆村武一『鹿児島県の歴史』(山川出版社、1999年)
  6. 鵜飼政志明治維新の国際舞台』(有志舎、2014年)
明治維新の国際舞台

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