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ヒトラーはなぜ独裁者となったのか【ナチ・ドイツの歴史】

近代史の中でも、アドルフ・ヒトラーほど有名な人物はいない。彼が中心となって行われたとされるドイツ帝国の再建や第二次世界大戦、そしてユダヤ人の迫害・大虐殺には、国を問わず多くの人々がその歴史に興味を惹きつけられる。それは、人権と民主主義という当たり前の価値観がいとも簡単に崩壊してしまったという歴史であるからなのだろう。私たちはそんな近代ドイツ史からどのような教訓を得られるのだろうか。

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ナチ党のシンボルであるハーケンクロイツは、1935年にはドイツ国旗にも採用された。

教訓を探るためには、ナチ党の歴史や当時の社会的な背景を理解しなければならないだろう。よってまずは、ナチ党が独裁体制を確立するまでの歴史から追っていきたい。ヒトラーが政権の座にあった1933から1945年までの12年間は、ドイツでは「ナチ時代」と呼ばれている。よって、ナチ党が誕生する1920年に時計の針を戻してみよう。

 

ナチ党の独裁体制確立までの歴史

ナチ党は1920年に誕生した。正式名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」である。1923年の、ナチ党単独でのクーデターであるミュンヘン一揆に失敗したヒトラーは逮捕されてしまうが、獄中で『我が闘争』を執筆することになった。そこで合法路線によりナチ党を取り戻すことを決意したのである。

反ヤング案国民請願運動そのものには失敗するものの、ナチ党の勢いは増すことになった。ここで注目すべきはナチ党の演説である。社会階層ごとに演説戦略が練られていたが、ユダヤ人に批判が向けられるように構成されていた部分に共通点があった。とりわけ農村を中心に支持基盤を広げていったナチ党は国民政党へと成長し、躍進をすることになった。1932年7月の選挙では国会の第一党になり、議席数の3分の1以上を占めるまでになった。

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上図は国会選挙での政党得票率の推移(参考文献1,p111より引用)である。泡沫政党とみなされていたナチ党が1930年9月の選挙で国会第二党に躍進してから、1932年7月の選挙において国会で第一党となるまで2年の歳月もかからなかった。

しかし党の勢いは、何も成し遂げることができていないヒトラーのカリスマ性の限界から伸び悩む。後退傾向にあったナチ党は国民の過半数の支持も得ることが出来ていない状態であった。しかし1933年、ヒトラーは、ヒンデンブルク大統領によって首相に任命される。保守派はナチ党の動きを見誤った。国民ではなくヒンデンブルクヒトラーを望んだのである。ヒトラーが首相になったのは、選挙で勝ったからではないのだ。

ではヒンデンブルク大統領はなぜヒトラーを首相に任命したのだろうか。彼は第一次世界大戦で活躍した名将として国民的な人気を博した人物だ。敗戦後、連合国より戦犯容疑者とみなされたが、彼は「匕首(あいくち)伝説」を主張し、国内の反戦平和主義者・ユダヤ人らに戦争責任があると主張したのである。

「皇帝は去ったが将軍は残った」と言われる時代だ。政治体制は帝政から共和制へと変わっても、実際の社会構造の変化は緩慢だった。帝政期の権威主義的な行動様式、思想信条を保持する者は、官僚・軍部・財界など社会的上層にとくに多く見られた。彼らはかつての立憲君主制を理想の統治形態と考え、労働者運動の指導者が政権に与るようなヴァイマル共和国の政治システムは、早晩、何らかの方法で克服されるべきものと考えていた。〔参考文献1 p119〕

ヒンデンブルクの民主主義に対する不信感が、ヒトラーをはじめとする愛国主義者たち(伝統的な保守派・右派勢力)に期待を寄せる結果を招いたのである。

ナチ党は単独政権ではなく、伝統的な保守政党との連立政権として政権運営にあたることになった。しかも、国会に多数派の基盤のない少数派政権である。このような政権は、大統領緊急令に基づいて政権運営を行っていく必要があった。大統領緊急令とは法律に代わるものであり、首相が大統領を動かして緊急令を発令することが出来れば、国会から独立して国政を動かすことができた。議会が関与しなければそこに民意が反映される余地が存在しないことになる。しだいに議会政治は空洞化していった。

1933年2月に発生した国会議事堂炎上事件は反共産党のキャンペーンに利用された。「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」によりヴァイマル共和国の政治と社会のあり方は大きく変化した。まず、共和国憲法の定めていた基本的人権が停止された。また政府による州政府への介入が正当化された。

しかし大統領緊急令による統治をいつまでも続けるわけにはいかない。そのためには授権法(全権委任法)が必要であった。この法律が成立すれば、首相は国会審議を経ずに全ての法律を制定することができるようになる。国会議事堂炎上事件により共産党議員は国会に参加することができなくなっていたため、法案成立のための要件を容易に満たすことができた。ヒトラーによる戦略によって1933年3月3日、遂に授権法が成立した。以後、政府の手によってナチ法といわれる新たな法律が次々と制定されることになる。例えば同年3月29日には国会議事堂炎上事件の犯人に対する死刑の執行を、罪刑法定主義に反して事後的な法律として成立させた。さらに全国均制化法により、ドイツの伝統的な地方分権・連邦制度を事実上崩壊させて中央政府の統制下に置いた。ところで、当時の政府による経済情勢の改善は苦戦していた。雇用機会は増加したが、賃金は下落し物価が高騰していた。ナチ党の古くからの支持基盤である中間層は幻滅を味わったのだ。

その後レーム事件によって既に無用の産物となっていた突撃隊の指導者を粛清し、権力基盤の強化を目指したヒトラーは、ヒンデンブルク大統領の死去により「ヒトラー総統」となった。独裁者ヒトラーが誕生し、ナチ党による独裁体制はここに確立したのである。

 

ヒトラーは民主選挙で独裁者に選ばれたのか

ナチ党が国民からの支持を伸ばしていくことになる過程の中で、確かに選挙という合法的な政治的手続きを踏んでいた。しかしながら、ヒトラー政権の誕生に関しては、国民の意見が必ずしも反映されていたわけではない。ナチ党の得票率も過半数を得ることができていなかった。

そのような状況の中でヒトラーが政権を握ることが出来たのは、ヒンデンブルク大統領による個人の思惑が働いていたからである。そして国民の意思が反映されるはずの国会の機能は大統領緊急令により低下していったのである。以上の事実から考えると、ヒトラーによる政権掌握に国民の意見が直接的に反映されていたとは言い難いといえるだろう。

 

民主主義は独裁を生むことがあるのか

当時のドイツは複数の政党が対抗し、盤石な政権運営が出来るまでの支持を得ていた政党は存在していなかった。その中で行われた大統領緊急令による政治は、議会政治を次第に無意味なものにさせていった。ドイツの民衆が政治に無関心だったというわけではない。短期間で繰り返される選挙に対して混乱はあったであろうが、国政が一部の特権階級によって牛耳られることは許さない態度をとった。しかし、ヒトラーの戦略により国民の手段はなくなっていき、時勢に身を委ねるようになっていった。議会制民主主義が完全に崩壊した結果、ヒトラーという独裁者が誕生したわけであるから、ヒトラーが民主主義を崩壊させたわけではない。民主主義が独裁者を生むことがあるという解釈は誤りであると捉えることができよう。

「民衆宰相ヒトラー」は伝統的な支配層・特権階級から縁の無い民衆の中から出現した。そのため、ヒトラーが正統性を得るためには、権力者や知識人又は宗教的権威からの支持を得ることが不可欠であった。ヒトラーは過激な共産主義者を排除することによって様々な階級の人々からの支持を得ることに成功したのである。

ただし注意すべき点もある。それは共産党員を排除する過程の中で民主主義のシステムが利用されたことだ。合法的に権力を掌握するための手段として民主主義のシステムが利用される可能性があることも考られるのだ。つまりは、民主主義が独裁を生む可能性があることを必ずしも否定することが出来ないのである。

 

【参考文献】

  1. 石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社、2015年)
ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)