みやしろ町から

大学生が「日本のこれから」を考えるブログ

大村益次郎はなぜ徴兵制を構想したのか

「徴兵」という制度は現在でも様々な国が採用している。「徴兵」がある国で日本から1番近い国は韓国であり、韓国人の男性は基本的に19歳から29歳の間に約2年間兵役につく義務がある。

ところで多くの日本人は「徴兵」の考え方に強い抵抗を感じているが、過去を遡れば日本にも「徴兵」の制度を持つ時代があった。それは明治時代の国民皆兵(徴兵制)である。明治時代の兵制は、1872年の徴兵告諭に基づいて翌1873年に徴兵令が発布された。また、徴兵令による軍隊の創設は大村益次郎が構想して、山県有朋が実現したとされている。

今回は大村益次郎の軍隊創設の構想に焦点を当て、大村が徴兵令の構想を描いたのにはどのような社会的背景があり、日本の兵制に対してどのような考え方を持っていたのかについて叙述していきたい。ついては大村益次郎長州藩や新政府での証言と、それらを取り囲む社会的状況に注目することによって、大村益次郎が国防と兵制に関してどのような認識を持っていたのか明らかにしていきたい。

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靖国神社にある大村益次郎像(筆者撮影)

 

海防についての認識

大村益二郎は適塾出身である。そしてもともと郷里である周防国において医者をしていた。しかしペリー来港後、まず愛媛県宇和島に向かい、そこで軍艦の雛形である蒸気船の建造に協力した。そこにはペリー来港後、公儀が諸藩に対して大船建設禁止令を解除し、後に雄藩と言われるような諸藩が西洋的な武器などを導入して軍制改革を模索する動きが強まったという背景がある。その後江戸へ行った大村は、宇和島藩から援助を得て、私塾である私塾鳩居堂を開いた。そして公儀の蕃書調所(江戸幕府直轄の洋学研究教育機関)への出仕が命じられると、大村はそこで蘭書の翻訳などを行っていたようである。この頃大村が海防問題についてどのように考ていたかを知ることができる証言がある。

其用は此頃幕命を以て海岸の国は、所謂海岸防禦を厳密にしなければならぬと云うことで、台場を造る事と大砲を鋳る事とを、早く先生に学んで速に帰国しろと云う命令が下った、~中略~

所がそれは困った事ぢや、勿論台場を造る事、大砲を鋳る事は、充分に調べて今日の世の中は無論其事は出来にやならぬが、先ず君の国抔は、海岸ではあるが、極、小藩である、小藩で海岸防禦抔は到底出来るものではない、洵に無駄骨で益のない話だ。

〔史料2 p179〕

公儀は防衛力の再構築を急いでいた。それに対し大村は、藩という単位では海岸防御などは到底出来るものではないと考えていて、無駄骨で利益のない話だとも言っている。つまり国家として纏まって取り組まなければ、欧米列強から日本を守ることは到底できないと考えていたのである。

大村益次郎先生事蹟

大村益次郎先生事蹟

 

 

徴兵についての認識

大村が幕末の長州藩の軍事面において重要な役割を持つようになったのは、長州征討時における高杉晋作らによるクーデターが契機だ。クーデター成功後の長州藩では、軍制改革の断行による武備の充実が最優先課題だった。そこで大村が軍制改革を主導することになった。大村益次郎先生伝記刊行会 編『大村益次郎』によれば、当時大村は次のような構想を持っていたとされる。

民政・軍政等の改革で、殊に軍政に於いては、四境に幕府の大敵を引受けることになれば、今日までの諸隊や世禄の士族隊くらいでは、到底抵抗できない故、この際農民町民から募集して兵役の任に就かしめることが必要である。〜中略〜

農民町民はこれを青年より採用するが、徒らに烏合の衆を集めたのでは戦時に役に立たないから、あらかじめ兵式訓練を行ふ必要がある。これを決行するのは急務である。次ぎには軍艦・銃器の準備である。

〔史料1 p394〕

つまり、長州藩を守るためには現在の士族隊の数では足らないので、藩主導によって徴兵を実施し、集めた農民町民を育成していくべきだと主張している。

当時の状況下において農民町民を兵隊として活用するという考え方が出てくるのは自然なのかもしれないが、戦いは武士の仕事という当時の常識を鑑みれば、その発想はとても意外である。そしてこれは明治時代の徴兵制度に通ずる考え方であり、上記の文の幕府を欧米列強とし置き換えたた時、それは明治時代の徴兵制度制定の理由として自然に考えることができるのだ。つまりこの構想が明治時代の徴兵制度に影響を与えたことは言うまでもないのである。

大村益次郎 (1944年)

大村益次郎 (1944年)

 

 

明治政府における大村益次郎

大村は戊辰戦争における彰義隊討伐や東北戦争での実績が評価されたことにより、明治元年に軍務官副知事に就任し、明治新政権の軍政に本格的に取り組むことになる。大村は新兵制の確定に取り組むことになるが、戊辰戦争における新政府軍をどう取り扱うかを課題としていた。それは大村益次郎の建軍プランである『朝廷之兵制永敏愚按』の中の一文から読み取ることができる。

皇国之兵制一般ナラサルハ、薩ノ名兵アリ土ノ名兵アリ長ノ名兵アリ、之ヲ廃スル能ワス、依テ兵制一般ナルコト能ワス。

〔参考文献2 p122より重引〕

つまり、兵制を統一するに伴い、戊辰戦争において新政府軍の主力となった、薩摩軍・土佐軍・長州軍が障害になっているとした。なぜならば、大村は木戸孝允の「維新の目的を明確に認識しなければ新政権の政治は始まらない。そのためには封建制を打破して朝廷政府への権力帰一を目指すべきだ。」という考え方に共感していたからだ。そのため一部の藩の意向が政府の方向を左右するようなことはあってはならないと考えたのだ。

この考え方を実現するために、大村は藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成を目指すことを考えていた。大村は欧米列強から国を守るためには、権力を一つに集中させることによって国全体が団結しなければならないことを主張していたのだ。                                

幕末・維新の西洋兵学と近代軍制

幕末・維新の西洋兵学と近代軍制

 

 

徴兵制の実現に向けて

大村は1869年(明治2年)に満45歳の若さで亡くなってしまうが、大村益二郎が亡くなった後徴兵令は実現することになる。しかし、大村は兵制について明治2年大久保利通らと対立し、激しい論争を行っていた。この兵制論争は大村が「農兵」論を主張したのに対し、大久保らは「藩兵」論を主張した。大村は国民皆兵を目標としていたが、大久保は薩摩藩土佐藩長州藩を主体とする中央軍隊の構築を志向したのだ。大村は長州征討などにおいて、奇兵隊などの諸隊、足軽や百姓町人の兵士をもって戦っていることから、徴兵は武士に決して劣ることはないと思っていたのだろう。

また同じ時に陸軍の兵式について、イギリス式とフランス式のどちらを採用するかについての問題も浮上していた。大村らはフランス式を採用すべきだと主張し、対してイギリス式を採用すべきだと主張したのは、薩摩藩出身者が多かった。フランスはこれまでロッシュを代表として公儀に対して援助を行ってきたが、大村の出身である長州藩薩摩藩などとともに、バークスを代表とするイギリスから援助を受けてきた。大村がフランス式の兵式を採用することを強く希望していた理由は「フランス式の採用は武士の軍務専行主義を否定し、将来の徴兵制による近代軍隊につながるものであった。」からだと考えられている。イギリス式は戦力の具体的運用に限定されたもので、比較的簡単に伝習が可能であったのに対し、フランス式は体力的に丈夫な兵士を養成しておくことを前提とする、本格的な軽歩兵の訓練法であることが特徴にあった。

結局のところ、最終的にフランス式に統一されることになるのだが、その理由として諸藩の抱える銃器の事情があったと言われている。戦法上、イギリス式は後装単発銃を、そしてフランス式は前装施条銃を用いる段階であった。能力が優れているのは後装単発銃なのだが、明治3年時点での普及率に大きな差があったのだ。フランス式の前装施条銃は戊辰戦争において最も多く使用された銃であり、明治3年に行われた諸藩に対する小銃調査では、前装単施条銃は29万9248挺で80.8%なのに対し、後装単発銃は2万9196挺の7.9%しかなかった。つまりもしイギリス式を採用した場合、銃器の更新が必要となり大きな財政負担になることが予想され、これを諸藩が嫌ったからだと考えられている。

大村益次郎―幕末維新の兵制改革 (中公新書 257)

大村益次郎―幕末維新の兵制改革 (中公新書 257)

 

江戸期の兵法である和流兵法は平和な時代が続く中で、伝承され体系化されていった。そのため儀礼的あるいは心得的な部分が強調され、兵法によっては、秘伝とされていたり、伝統を保つだけとなり形骸化していったのだ。

そのような状況の中で、日本を守るための仕組みを変えていかなければならないことはとても大変な事であろう。大村は一つの権力のもとで国民全体で国を守っていかなければならないという姿勢を持っていたが、果たして現在の日本はどのように自国の安全保障を守っていくべきであろうか。

 

【参考文献】

  1. 絲屋寿雄『大村益次郎』(中公新書、1989年)
  2. 竹本知行『幕末・維新の西洋兵学と近代軍制-大村益次郎とその後継者-』(思文閣出版、2014年)

【史料】

  1. 大村益次郎先生伝記刊行会 編『大村益次郎』(肇書房、1944年)
  2. 村田峰次郎『大村益次郎先生事蹟』(1919年)
  3. 山口県山口県史 史料編 幕末維新6』(2001年)