なぜ明治維新史を修正せねばならないのか【日清関係篇 下】
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琉球漂流民殺害事件の発生
1872年8月、鹿児島県は琉球民が台湾島東部の蕃地に漂着したが、生蕃によって殺害されたと明治政府に報じた。ここで日本側は琉球国民を日本人であるとする立場をとることになる。その後、日清修好条規の批准交換を行うため、天津・北京へ派遣されていた全権副島種臣の使節行の中から、随員の一人であった柳原前光が総理衙門へ派遣された。そして柳原は会談の中で、清朝の立場を台湾の生蕃は化外の民であり、清朝の統治外であると捉えた。日本は国際法に則り、生蕃の責任を追及するという大義名分のもとで台湾に出兵した。
台湾出兵における解釈の齟齬
ただ台湾出兵は、清朝からみれば明らかな侵略戦争であった。清朝は、台湾出兵は日清修好条規に違反するという立場をとり、日本の朝鮮出兵を正当化しなかった。その根拠を日清修好条規の第一条の、「両国所属邦土、不可稍有侵越」という記述に求めた。一方で日本側は、台湾の生蕃が中国の統治外であるという認識から、日清修好条規とは関係ないと主張した。加えて、日本側は中国への敵対的意図を否認していた。
ここで注目すべきことは、清国の論理は日本の論理と大きく異なるということである。清朝にとって条約はそれまでの対外関係の一つである互市の修正継続に他ならなかった。万国公法も従前の条約、あるいは日清修好条規と同じであって、条約・条規に優先したり、その前提をなす、というものではなかった。そのため台湾出兵における日本側との交渉において、日清修好条規を選択的に適用したのである。
また、清朝政府は生蕃を清国の属とみなしていた。生蕃は確かに中国の行政権行使の範囲外にあるものの、台湾全島は疑いもなく中国皇帝の領土なのである。 結果的に、日本は清朝を国際法に準拠しない国だとみて、不信感を強め、かたや清朝は、 日本を条約を守らず、みだりに武力にうったえる国だとみて、いっそう警戒感をつのらせる ようになった。日本の軍事侵攻を未然に防ぐことが出来なかった清朝は、海防政策や北洋海軍建設に力を入れていくことになる。
琉球処分の余波
こうして高まりつつあった日本に対する清朝の危機感は1879年の琉球処分でひとつの頂点に達した。清国にとってこの事件は琉球との間に厳存した宗属関係の解体消滅を意味した。
日本政府は1872年10月16日に琉球王国を琉球藩とあらため、1875年7月には清朝との朝貢・冊封体制の廃止、明治年号の使用などの要求を一方的に行った。結局清朝は、日本政府による琉球処分を防ぐことができなかった。清朝にとって琉球は朝貢・冊封の儀礼で結ばれる属国であった。実効支配は無かったが、朝貢を行えば清朝との間に儀礼上の上下関係が生じるために属国と位置づけていた。清朝は日本への対抗策として日清修好条規の第一条 を援用したが、琉球は清朝の属国だから日本の侵攻・併行は不可であるという論理は、国際法に準拠して、実効支配こそが属に値するという日本政府の主張と噛み合わなかった。つまり日清修好条規の第一条は完全に無効化したのである。そして清朝は、琉球という属国が滅亡することよりも、今後清朝の属国がこのような形で滅亡し、敵対する可能性があることを重要な懸念として捉えた。 欧米諸国との条約改正交渉と同時並行で進めていた明治政府はその影響を考慮して1873年に日清修好条規を批准することになるが、清朝側の交渉全権であった李鴻章は日本政府の姿勢を非難し続けた。また、琉球島民の台湾遭難・殺害事件や琉球帰属問題がさらに絡み合うことで、日清関係は険悪なものになっていったのである。
以上の点から、日本と清朝による対等な条約関係という解釈は、幻想にすぎないことがわかるだろう。結局のところ、華夷秩序や対欧関係が複雑に絡み合う情勢の中で、対等な条約が結ばれることはあり得ないのかもしれない。
【参考文献・論文】