みやしろ町から

大学生が「日本のこれから」を考えるブログ

イスラーム報道を考える

遡ること2015年1月7日、フランス・パリ11区にある風刺週刊誌を発行している「シャーリー・エブド」本社に覆面をした複数の武装した犯人が襲撃し、12名の尊い命が失われた。原因はこの会社の発行する新聞に掲載されている風刺漫画による宗教批判だ。2001年の同時多発テロを契機としてイスラム原理主義に対する風刺が増えたという。過激な風刺について世界中で様々な論争が行われる中、フランスでは200万人を超える人が「表現の自由」を訴え、行進した。欧州社会は「表現の自由」を支持したのだ。

しかし、私はこの新聞の実際の風刺を見たとき、その過激さに衝撃を受けた。もちろんこの新聞は一部の地域の人にしか手に入れることが出来ないかもしれないが、ネット社会の現代では、世界中の人がこの風刺について知ることは容易であろう。私たちはこのような報道に対し、イスラームをどのように見ていけばよいのだろうか。

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イスラーム教に対するイメージ

イスラム教」に対して私たちはどのようなイメージを持っているのか?という疑問に対して、統計的に結果を出した研究がある。2009年10月に早稲田大学大学院人間科学研究科アジア社会論研究室が岐阜県岐阜市のある地区を対象として「外国人に関する意識調査」を行い、466名の回答を得ている。その調査の中に、「イスラム教は平和を重んずる宗教であるか」という質問に対して26.7%の人が、とてもそう思う又は、ある程度そう思うという回答をしていて、年代別にみると、20代の人はその値が36.1%まで上がる。ところで、『イスラーム教徒の言い分』において、筆者のハッジ・アハマド・鈴木氏はイスラームについて次のように理解を求めている。

イスラーム教は何よりも平和を重んずる宗教である。相手の生命、心身、財産を脅かすような行為をイスラームは固く禁じている。また、この点ははっきりとさせておきたいが、イスラームは完全な非暴力主義ではない。無辜の人々への暴力行為は禁じるが、正当防衛は許している。

上記のようにイスラーム教は平和を大切にする宗教なのに、どうして誤解されている部分があるのだろうか。

私はメディアが伝えているイスラム圏の多くの出来事の多くが、紛争やテロなど、マイナスのイメージを持つものだからではないかと考えている。様々な情報と接する機会が多い現代では、メディアに対して影響を受けやすい。よってメディアの中東における紛争やテロのニュースから、イスラム教が平和を大切にしていないと錯覚してしまうことがある。

もちろんメディアにとって起こった出来事を伝える事は義務であり、良くない出来事が続く現状を伝えつづけなければならない現実があるのは仕方のないことだろう。しかし、同時にイスラームの正しい理解も伝えなければならない。ただ、新聞でもニュースでも空間や時間は限られている。詳細に正しいイスラームを発信し続けていく努力が必要だろう。そして私たちはそれを正しく理解しようとしなければならない。

 

メディアのイスラーム報道

また、こうしたメディアの報道に対して報道の仕方の視点から批判的な見方をしているのが、師岡カリーマ・エルサムニー氏である。彼はイスラームに対する誤解に、メディアが大きく関わっているという。彼は不必要にイスラームという言葉をニュースに練り込んでいることを指摘している。「イスラームだから」「イスラームなのに」という言葉を盛り込んで報道することで、イスラーム教が「異質な宗教」という固定観念ができてしまうという。イスラームに対する偏見をなくすためには、まず、「イスラーム」を異質的・特異的に見ようとする態度を変えなければならないのである。

さらに彼が指摘していることは、「イスラーム原理主義」を誤解してはならないということだ。この言葉が世界に登場したのは1980年代になってからで、マスコミがイラン革命を評してつくった造語である。「自称・原理主義者を真に受けるべからず」と彼が言っているように、私たちが正しいイスラームの教えを知らないと、一部の過剰な保守主義者や人格的に問題のある排他主義者の発言をイスラームの教えであると誤解してしまうことにつながってしまうのだ。

イスラム・ヘイトか、風刺か

イスラム・ヘイトか、風刺か

 

 

自爆行動をどう捉えるか

全く関係のない人の命を巻き込むテロ行為は決して許される行為ではない。それはイスラーム社会においても同じだ。ハッジ・アハマド・鈴木氏は、自爆行動については、それが「自殺行為」なのか、「殉教行為」として捉えるかによりその解釈は違ってくるという。

まず、イスラームにおいては自殺という行為は大罪であり、自殺をした人間は地獄の責め苦を受けるとされている。また、殉教という行為はとても栄誉なものであるが、殉職について彼はこう説明している。

殉教は、その個人の生命より、さらに次元の高い何かに捧げる時に成立することになる。

自分の死が何か尊いことのために役立つと確信した時に、初めて殉教としての意味を持つのである。

つまり、なんの罪のない一般市民を巻き込んでの自爆テロは、殉教という言葉で表すことは決して出来ない卑劣な行為なのだ。平和を重んずる宗教がこのような行為を決して受け入れるはずないだろう。だから、イスラーム社会でもテロと懸命に戦っていることを理解しなければならない。

イスラーム教徒の言い分

イスラーム教徒の言い分

 

私たちがイスラームを見るときに注意しなければならないのは、一部の危険な思想を持つ人とその他16億人の信者の考えを混同させないことだ。それは私たちがイスラームの教えについての基本的な知識を持つことによって防ぐことが出来る。そしてイスラームの文化を特殊なものとして見ることをする必要はない。

現代の社会は様々な意見・考えと接する機会が多くなっている。イスラームに対する様々な考えとこれからも接していくことになるだろう。そのときにイスラームに対する正しい知識を持っていればそれらに安易に同調したり、また逆に排他的にならないはずだ。イスラームは私たちと同じ「平和」を大切にしていることを忘れてはならない。

 

【参考】

  1. 師岡カリーマ・エルサルニー『宗教と現代が分かる本2013‐誤解を招くイスラーム報道、三つの教訓』(株式会社平凡社、2013年)
  2. 第三書館編集部『イスラム・ヘイトか、風刺か』(第三書館2015年)
  3. ハッジ・アハマド・鈴木『イスラーム教徒の言い分』(株式会社めこん、2002年)
  4. 店田廣文、岡井宏文『外国人に関する意識調査』<http://imemgs.com/document/gifusurvey.pdf