みやしろ町から

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ホロコーストはなぜ起きたのか【ナチ・ドイツの歴史】

19世紀後半の社会は、急激な産業化・人口の増加により、既存の社会構造と伝統的な価値体系が崩れ、人々の間で不安が広がっていた。そのような状況の中で、極端なレイシズム(人種主義)や人種衛生学が根を下ろしていく。これらの思想はマイノリティが迫害される要因となった考え方であった。今回はホロコーストはなぜ起きたのか、思想的背景を中心にその実態を叙述していきたい。

 

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絶滅収容所は東部編入地域や総督府領などに建設された。写真は東部編入地域(現在のポーランド)に建設された、アウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所。これらの施設で行われたユダヤ人殺害政策は「ラインハルト作戦」と呼ばれた。

 

極端なレイシズム(人種主義)

レイシズムは、人間を生物的特徴や遺伝学的存在によっていくつもの種に区別し、それらの種に生来的な優劣の差があるとする考え方である。とりわけフランスの貴族階級であったゴビノーは、王侯の系譜を引く貴族階級こそ優秀な「アーリア人種」の子孫とみなした。アーリア人種は白人種の中で最上位にあり、別の人種が交われば、退化するといった思想は20世紀初頭のドイツで広く受容されることになった。

また、人種衛生学は「種が進化を遂げるためには、社会が自然の摂理に従って再編成されるべきである」という考え方を示した。それは、人間の遺伝子劣化を阻止するためには、劣等な遺伝子を持つ人を選別する必要があるというものだ。例えばドイツにおいて人種衛生学を成立させたプレッツは、常習犯罪者や精神障害者を劣等遺伝子の保有者、あるいは突然変異とみなした。

その後第一次世界大戦が勃発すると、ドイツは多数の男子・青年を失い、出生率が低下した。その結果、優れた人間をつくることが国家にとって緊急の課題になった。そのような状況の中で、人種衛生学は、アカデミズムの中でも学問としての価値を築いていくことになる。そしてナチ党は上記のような考え方を根拠にした上で、民族共同体をひとつの生命体に見立て、「犯罪的遺伝子」や「堕落性向」を持つとされる「常習犯」や「反社会分子」、「労働忌避者」、「同性愛者」、「ロマ族」、「エボバの証人」らをドイツ社会から排除・隔離する方針を具体化していった。とりわけ心身障害者や不治の病を持つ者に対しては安楽死殺害政策が実施され、ヨーロッパ全体で約30万人もの生命が奪われる結果を招いた。

つまり、マイノリティとして迫害の対象になったのはユダヤ人だけではなく、障害者や犯罪者にも及んだのだ。また、その後ユダヤ人が追放の対象となる理由は、キリスト教の歴史の中に潜在的に存在していた反ユダヤ主義的思想だけにとどまらず、人種的な優生思想に根拠を求めたからでもあった。ここからはユダヤ人への迫害についても見ていく。

 

ホロコーストの実態

まずニュルンベルク人種法は、人間を科学的に捉えようとする営みの延長であった。ユダヤ人の定義については指導者の間でも始めは混乱があったが人種法施行令によりユダヤ人を定義することができたことにより、ドイツをユダヤ人のいない国にするという目標が具体化したのである。

加えて、第二次世界大戦の勃発はホロコーストの一つの要因となった。戦争開始後、ドイツが勢力を拡大するにつれてその支配下ユダヤ人の人口は増加した。ヒトラーはドイツの勢力圏が拡大する中で、民族学的に新たな境界線が引かれることを望んだ。ドイツの国境外に居住し、ドイツ国籍を持たないドイツ系住民をドイツ領内へ帰還させるという、「民族」ドイツ人移住政策を実施した。ただし、ユダヤ人はドイツ領内から排除されなければならなかった。最初は総督府領内への追放が計画されたが、頓挫してしまったため、行き場を失ったユダヤ人を一時的に拘留するための施設としてゲットーが設置されることになった。さらにその後計画されたマダガスカル島への移住も、実現させることができなかったため、膨れあがるユダヤ人をゲットーに押し込めた。結果的にゲットーでは食糧不足と衛生環境の悪化の為に疫病が蔓延し、担当していた親衛隊幹部はその解決策の一つとして殺害を検討することになったのである。また、強制断種法は人種衛生学者の強い働きかけで実現したことに加え、安楽死殺害政策は、総統官房と親衛隊保安部、内務省医療機関との綿密な関係のもとに進められることになった。

一方でドイツ国民は優生思想を受容する中で、優生社会に向けた国民の社会的合意が徐々に浸透していった。さらに、ユダヤ人がドイツ住民においてわずかな割合でしかなかったために、国民はユダヤ人追放を認識しながらも、ホロコーストを阻止するための声を上げることがなかった。そのため、最終的にはポーランドソ連を中心に400万人以上のユダヤ人の命が奪われることになったのである。

結局のところ、戦争はホロコーストの一要因にすぎなかった。つまり、戦争が勃発したからホロコーストが起きたわけではなく、戦争によってホロコーストが促進されたのである。

 

ナチ・ドイツの教訓

私たちはユダヤ人への迫害という象徴的な事件だけではなく、犯罪者や精神障害者への排除政策もあったことを認識しておかなければならない。人間も生物なので、遺伝子的に優劣があることは理解することが出来るが、特定の人種が他の人種よりも優れているという思想は現代では、当然理解されないものである。つまり、ホロコーストという視点で見るだけでは、戦争の悲劇を十分に理解し、そこから教訓を得ることが出来ないのだ。

結局のところ、当時ドイツに住んでいたユダヤ人がどれだけ自分たちのアイデンティティを自覚していたのだろうか。日本の場合は、そこに住む人民が日本国の国民であると自覚したのは近代になってからであるが、ヨーロッパの歴史を見ると、民族が移動する中で様々な王朝が興亡していることが分かる。その中でドイツ人だけの国、つまり単民族による国家を創り上げようとしたのは無理のあることであったのではなかろうか。

現代でも中国などの多民族国家はいくつも見られるが、そのような国において現在進行形で発生している少数民族問題の根底には、複雑な歴史の過程も内在していると感じさせられる。ナチ・ドイツの歴史は現代の民族問題を考えるうえで、重要な視点を与えてくれるのである。

 

【参考文献】

  1. 石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社、2015年)
ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)

ヒトラーとナチ・ドイツ (講談社現代新書)